後に後記になった思考
以下の内容は「そんな単純な話ではない。」「それが最善ではない。」といったことは百も承知で、それでもこの思考によって好転する場合があると思い、書き残す。
歴史をただの前例にすぎないと考えることで新しいことをすんなり受け入れることができるかもしれない。
学校は一時的に小さな社会に投獄されているだけであってその外にも未来にも社会は無限にあると捉えればいじめられていても無理して学校に行かない択をとれるかもしれない。
音楽は音波でしかないと考えることで評価に縛られず対等にそれぞれを好きかどうかで判断できるかもしれない。
これら全て、好きだったり不満がないなら必要ないかもしれない。
しかしこれらの本質を常に心に据える行為がある意味で文化的な文脈的なアプローチで僕の心に作用することがよくある。
空気の通り道を試行錯誤して口から出てきた音を聞いて喜ぶことがあるし
黒い模様のついた紙の束をを眺めただけで号泣することだってある
生まれてから6億3115万2千秒たっただけで自分の何かが変わったような気がする
なんでもないような事で幸せな思いができる。(ここでハーモニカが聴こえてくる)
私たちは文化的なバイアスの中で生きているのでそれはそもそもなんでもないようなことではないというのもわかるが、文化的なバイアスの外を知覚した上でその中で生きていくことによって一番最初に書いたような取り除いてもいいバイアスを取り除いて、時にフラットに対等に時に必要なことだけを考えることができるのではないか。
他人が用意したバイアスを取り払った時に残ったものは自分の考えなのではないか。
そういう自分の意見の探り方もあると思うし、僕はよくやる。
なんだかんだ気分次第
自由になら1秒でなれる
(↑THE HIGH-LOWS↓/夏の朝にキャッチボールを)
まとまらんけどそゆことですわ。
これにも通ずるというか後記のようになったので後記ということにします。