拍手を贈る自分が怖い。
人類総配信時代。
どんどんと物事の裏側が暴かれ、コンテンツの裏をさらけだし、才能を発掘するという面ではこの上ない良環境が整った昨今。
やはりずっと僕の中にいたローコンテクストへの抵抗の正体が何となく言語化できた。
この話題は度々口にするし、水切りラジオの方でも何度も擦っている。
まず言いたいのはこいつはローコンテクストに対する嫌悪ではなく抵抗であるという点。
つまりは僕だって知れるものなら知りたいしそういったものを摂取して日々生活していて基本的にはそちら側の人間であるということ。
では抵抗とは?
例えば音楽。バンドのようなわかりやすい構造ならともかく、たくさんの人間が関わっているプロジェクトとしての"アーティスト"などという形態においてそのプロジェクトの音楽性、世界観等は他者によってプロジェクトの顔に貼り付けられる。
僕の1番好きな漫画「荒川アンダーザブリッジ」には巻末に毎度カラーページの詩のようなものがついている。その中でも朧げながらに強く印象に残っているのが13巻の巻末。登場人物の亀有くんの心理を表したような詩であった。超人気のアイドルで露出癖があり基本的に全裸で過ごしている人物。
巻末では(たしか)彼が橋の上にいて、ほかの登場人物たちは警察の格好でその橋を包囲している。亀有くんはもちろん全裸。おそらく逃げ惑った末に包囲されてしまったのだろう。彼は服を着せられる。おそらく様々な企業の様々なイメージモデルとして、大量の服を着せられていく。周りの人たちは皆笑顔になっていく。次第に湧き上がる拍手。しかしもう大量の服に埋もれて美しい彼の姿は見えなくなってしまっていた。それでも周りの人は拍手を贈る。誰も彼の姿が見えないことに気づいていない。
そんな感じだったと思う。
豪華制作陣、敏腕プロデューサー、大手レーベル等の他者たちの力や見える範囲が増え続ける中でそのモデルとなっている顔・核となっているあなたがまだ見えているのか、もう見えていないのか、最初から見えていなかったのか、僕にはわからなくなっていて、僕がもしあなたなら自分のアイデンティティを侵食してくるそれを拒絶しかねない。
おそらくこれが抵抗の正体。裏まで見えるのはいいことであるだろうけど、服さえ見えればよいのであればマネキンでいいしモデルはマネキンではない。
ものをいう。
それを聞いていたい。
服が嫌いなのではなく服でモデルを拘束して隠してしまうことが怖い。
隠してしまっていることが怖い。
隠されることが怖い。
ほとんどの場合はそんなことないんだろうけど
たった一度でもそれに拍手を贈るのがとても怖い。
マネキンはとても好き。手が特に好き。