編成

人類全体が

研究者が人類繁栄をすすめている攻撃要員で

教育者、飲食関係、サービス業、その他のほとんどが研究者に少しながら加担しているとするとバフ要員で

医者が回復要員で、、、という編成で繁栄をすすめてるとすると

自分の好きな絵を描いて音を奏でてる画家やミュージシャンは何要員なんだろうか

結果的にバフ要員かもしれんけどそれは不本意

編成時には何要員として組まれたんだろうか

全部大真面目。と言うより…本音

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日二二度程マックデヂカンヲツブシ
オレンジジュースト少シノ野菜ヲタベ
アルユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
決シテ驕(オゴ)ラズ

過信セズ

他人ヲ罵ラズ

絶対二イキラズ

日々感謝ヲワスレズ

小サナオルスタノ小屋ニイテ
東二長髪ノギターオレバ
行ッテバチバチノソロヲ聴キ
西二疲レタ人アレバ
行ッテソノ立チ位置ヲ譲リ受ケ
南二死ニソウ人アレバ
行ッテムリシナクテモイヽトイヒ
北二ケンカヤソショウガアレバ
クダラナイカラヤメロトイヒ
シカゴガキタラナミダヲナガシ
サムサノサッポロハガクブルトアルキ
ミンナニメユトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイシ

サウイフツアーニ

ワタシハシタイ

we are here in シカゴ

まあやのライブで初めて泣いた

2日同じ曲で泣いた

泣いたからなんだと言われればそれまで

別に泣いたから今回は良かったとか、今までは泣かなかったからそんなに心に響いてなかったとか

この涙は1ミリたりともそんな意味は持たないんだけど

 

僕には理解ができなかった

自分がなぜ泣いたのか本当に理解不能だった

ひたすらに理解できなかった

 

ロックのライブで泣いたことはない

EDMとかテクノとかそういうジャンルでも泣く要素はひとつもない

ステージで歌ってても泣いたことはない

wugのファイナルは手紙では泣いたけど歌で泣くことはなかった

 

ライブで泣いたことが一度もないわけじゃない

マクロスのライブでMay'nと中島愛サヨナラノツバサの完全再現セトリを披露した時は

泣いた

ひたすらに泣いた

泣きながら体を揺すって跳んでた

 

そう

泣いたことがないわけじゃない

 

 

でもまあやライブで泣いたことはなかった

 

 

どんなに前でライブを見ても

まあやの涙を見ても

震える声を聞いても

泣いたことはなかった

 

他人が今回は泣いたとかあの曲はヤバすぎて超泣いたとか言っててもひとつも理解できない

自分には当てはまらない

感覚が違う

自分は感受性に乏しいだけ

音でぶちあがることしかできない

人によっては冷たい人と思う人もいるかもしれない

冷たい人なのかもしれない

そう思って生きてきた

最悪を想定していればそれより最悪は訪れないからそうしてた

感覚が違うのは事実だし僕だけに当てはまることではないから問題ではないのだけども

僕が冷たかろうがそれも問題ではない

関係ない

脱線はやめよう

 

今の問題は自分がなぜ泣いたのか

この不思議の意味が知りたいそれだけなんだ

 

なぜシカゴで泣いたのか

Gifとかキミ行きとかもっと好きな曲はあるのに

なぜシカゴだったのか

 

多分歌詞なんだと思う

シカゴの歌詞がこのブログのちょっと上に書いたような僕の内面の悲観的な部分をひたすらに肯定して許してくれて

居場所を感じさせてくれた

だから泣いたんだろうな

嬉しくてありがたくて泣いたんだろうな

 

僕は気持ちを表現するのが苦手

文字にするのも苦手だし言葉で伝えるのも苦手

 

でも自分の言葉は自分の気持ちに照らし合わせて必ず理解できる

だからここに残す

 

こんな気持ち僕にしかわからないだろうし

誰かにわかって欲しい訳でもない

その時々の現在地をここに残すことで

他の誰でもない未来の僕がこれを観測して、過去の現在地を辿って、今の現在地を再確認できるように

 

ここに現在地を標す

「好き」だけでいい

僕は邦楽しか聴かないとか洋楽にしか興味が無いとかいう考えはよくわからないんだけど結局言語の壁って大きいんだろうなって思う。

 

 

歌詞の意味がわからない。

 

 

歌詞のどこにどういう思いを込めて歌ってるのかが伝わってこない。

 

非常にわかりやすく納得もできる理由。

 

まあ確かに。

 

でももったいないとも思う。

 

結局曲とか音楽の力でも越えられない言語の壁。そんなもんか…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなもんなのか!?

 

音楽の力ってそんなもんなのか!?!?!?

 

言葉が伝わらなくても伝わる音楽もあるんじゃないのか!?

 

言語が伝わらないから受け入れられない音楽って結局、音楽の壁を越える力のない音楽だっただけじゃないのか!?

 

音楽が伝えるのは歌詞だけか!?

 

ミュージシャンが表現してるのは全身全霊の音、歌詞、パフォーマンス…………全部!

 

だろ!!!

 

そんなことを思っていた中、僕の好きなミュージシャンが4年半ぶりにアルバムをリリースした。

 

日本では先行で2日早くリリースされた。

 

lightning bolt のアルバム

Sonic Citabel (音の城塞)

 

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アメリカのノイズ・ロック・デュオ、lightning bolt

 

その特徴はなんと言ってもベースとドラム(兼ボーカル)のデュオということ

 

ベースとドラムのデュオ?変なの🤨

 

って思う人が少なからずいるかなとは思うから言っとくけど曲を少しでも聴いたらその疑問符は全て剥がれ落ちると思うよ

 

 

完成されすぎてる。まさしくlightning bolt!!!

稲妻の名前そのままで、足元をすくわれそうな疾走感。いきなり首根っこ掴まれてベースとドラムでぶっ叩かれたかのようなサウンド

 

まさにlightning bolt…(2回目)

 

爆発するかのように襲いそして消える時は嵐のように立ち去る。って感じ

 

ちょっと待って!

 

このブログで言いたいことはlightning boltいいぞって話じゃないんだ。それは確かなことだけどそれじゃないんだ。

 

 

まだ閉じるのは早い。もう少しだけ付き合って

 

 

上の動画を少しでも聴いた人はもうベースとドラムだけで大丈夫?とは言わないだろうね。

 

この2人でいい。それでいいと納得してる自分がいると思う。(思わない人もいると思う。むしろこんなジャンル刺さらない人の方が多いんだろう。それはわかってる。)

 

そこでこう思ってる人もいるかな

 

「これってほんとにベースなの?」

 

ガチです。

ベースにギターの弦張ってたり色々すごいなと思う要素はあるけどこれ見て分かるとおりやっぱりデュオで、ベースとドラムなんだ。

 

ドラムはマスクの中にマイク付けて歌ってはいるけどハウってこもって…

なんかもうすごいしか言えないよな

 

 

ホントそうなんだよ。
 
ごたごた言える次元じゃないのよ。
 
少なくとも僕はそう感じてる。

 

 

 

 

 

僕は音楽について死ぬほどごたごた言うのが好きだけどそれと同じくらいごたごた言わないのが好きなんだ。

 

↑これが言いたかった(スッキリ😊

 

ごたごた言わないというより言えない。言わせないと言うべきか?

 

そーいうのが好き。

 

 

ずるい?でもガチで。

 

ごたごた言わせないくらいすげー曲を。音楽なんだから「音」で理屈や言葉や意味をぶち破る。

 

lightning boltの音楽は間違いなく僕の言語の壁を越える力があって、むしろ稲妻となってその城塞をぶち破ってきた。

 

ググれば歌詞なんかいくらでも出てくる。

 

読んでもよくわかるようなわかんないような歌詞が出てくる。

 

でもそんなことより「かっけー…」が先に来て

 

この音を聴いていたいという気持ちが心を支配する。

 

 

人それぞれにとって、その壁が通用しない程の圧倒的音楽があると思う。

 

それは洋楽かもしれないし邦楽かもしれない。

 

その可能性は等しくあると思うんだ。

 

もちろん国によって系統やジャンルの流行りなんかはある。

 

だけどそんなことじゃ説明できない稲妻のような衝撃はどこで潜んでるかわからない。

 

それがどこの国にあるかなんて最初から決めつけていいの?

 

この音楽が好きって気持ちは説明できなくたっていいんだぞ

 

頭で考える余裕なんてないくらい

 

ない頭使っても到底わからないくらい

 

圧倒的なものにであったらそんなの説明できないもん。

 

音は頭だけで聴くもんじゃなくて、体と心と神経も使って全身で聴くもんだとおもう。

 

以上です。

 

そんなlightning boltの新譜から1曲

Sonic Citadel(音の城塞)をぶち壊す衝撃。

最高。

欲と手放したものと得たもの

ブログ書けと言われたので手短に書きます。

異能バトルは日常系のなかで」というアニメの早見沙織さんの有名な長ゼリフがありますけど、(わかんなーーーい!ってやつ)

それと同じようなことなんだけど、

SNSとかYoutubeとかって、身を削ってる人の方が評価される傾向にあるけど、

結局一番偉いのってちゃんとやってる人よね。

ちゃんとやってるのって偉いけど当然とされてるから表には出てこないけど、

でもやっぱそっちの方が断然偉い。 僕は別に全然そっちの部類ではないんだけど、

馬鹿アピールとかアホアピールとかいいんだけど、大抵怠惰なだけだったり、頭ではアホだとわかっててやってるケースがほとんどに思えておもんないなと思う。

そこを履き違えて一線越えたひとはバカッターとか言われて晒されたり叩かれたりするのも事実。

別に誰がどーしようがどうでもいいんだけど、すこし哀れに感じてしまうので、はきだめにそっとはきだしておく。

最近聴いてる今期一番かっこいいと思うアニメの曲だけ置いて去ります。またね。

このバンドサウンドとてもすこい…。

見えてる 見えてない




ある物事に対してひとつの意見を言うということは、

その物事に対しての意見は述べたものが全てであると捉えられかねない。

つまり言ったことが全てであり、それ以外の意見はないと思われかねないってこと

意見を述べるという行動、「アクション」を起こしてるという時点で自発的な動作がきっかけとなっているので、

「わざわざと」述べた意見であるならそれが思いの全てだと、見た人からは捉えられやすい。

特にTwitterはツイートすれば何も考えずにそれを読む人も、そうでない人もいる。

これは意識的にではなく心理的な話なので

そういった意見を何も考えずに読んだ人ほど、よりそう捉えやすい。

でもそんなわけないじゃん?

意見というのはそれを言う人の経験、歴史、ニュアンス等の見えない部分の諸々の背景がとても重要。


文ではそこに書いた 1% のことだけが正しく伝わり、

そこに書いてない 4% のことが正しく伝わり、

残りの 95% ことが誤って伝わる。


そう考えて物言った方がいい。